2016年2月19日
桜の咲かない吉野山に思う
冬の時期の吉野山は閑散としている。
桜の時期以外は人が通らない。
冬期休業が多く、ほとんどのお店が閉まっているようです。
桜がないだけでなく、店が閉まっているとさらに淋しさを助長する。
吉野と言えば、桜の季節しか来たことがありませんでした。
今回、エコツーリズム研修で一緒だった吉野ビジターズビューローの方がいろいろとお話を聞かせてくれ、桜以外の楽しみが見えて来ました。
吉野葛、吉野杉、小麦の焼きもち、そしてあたらしく地域おこし協力隊の2人がオープンしたねじまき堂。
閑散期にいくと、桜以外の楽しみが見えてくるのでした。
そもそも、桜は観光名所にするために植えられたのではありません。
吉野山は、いまでも女人禁制の山伏が修行をする山。
1300年前、修験道の開祖が桜を蔵王権現様の神木とされました。
お参りにきた人々が信仰の証として植えていきました。
こうして山を埋め尽くした桜は「生きた献花」だったのです。
桜の咲かない山をみて、ふと、
伊根のおばあさんの言葉を思い出す。
「あの桜は、私が生まれた頃に植えられたものなんよ」
おばあさんの生きた時間とともに育っていく桜は、
きっと、やがておばあさんがいなくなったとしても咲き続ける。
丹後の山はスギ、ヒノキの植林ばかりになってしまった。
そんな緑の山にぽつぽつと桜が咲いている。
お金のために植えられた針葉樹の中に、
桜は、こどもの生誕の記念にと植えられた。
針葉樹で覆い尽くされた山にただひとつしかなくても、
想いの詰まった桜が精一杯咲いている。
ただ、
観光地化するために、人に見てもらうために植えたのではない。
だれかが、なにかの記念に植えたもの。
ひとつ、ひとつの桜には、人生がある。
桜の咲かない季節。
だれも見に来ない花の咲かない山。
見られるために咲いているのではない。
それでも1年に一度、頼まれるでもなく咲くのだ。
人も同じかもしれない。
大勢のひとだかりの中で一緒にわーっと咲く人もいれば、
人里はなれたところでひっそりとがんばってる人もいる。
だれかにほめられるためでも、評価されるためでもなく。
ただ、そこに生きてる。
もし、やまにぽつんと咲いている桜があれば目立つだろう。
でも、その桜は、ただ奇麗なだけでなく、
誰かが何かの記念に植えたものかもしれない。
そう思うと、山をにぎわす桜の見方も変わってくるにちがいない。
吉野葛のお店
残念ながらお休みでお話聞けず・・・
吉野の林豆富店さん
(豆"腐"ではない)
<アクセス>
<参考サイト>
吉野ビジターズビューロー
http://yoshino-kankou.jp/
吉野スタイル
http://yoshinostyle.jp/
移住体験スペース「三奇楼」
http://sankirou.com/
登録:
コメントの投稿
(
Atom
)
0 件のコメント :
コメントを投稿